マスクと発達障害
マスクが人間の体の一部となるがごとき世の中、皆様いかがお過ごしでしょうか。
マスクといえば、
数年前の使い捨てマスクって、すぐ耳が痛くなって、2日以上続けてつけるのはかなり苦痛だったんですよね。
現在のマスクはそんなことがなくなってて、確実にコロナ禍の中で技術革新が起こったことが伺えます。
感覚過敏を持つ方はマスクをつけられないという不平等があるのですが、
その内感覚過敏の方も不快になりにくいマスクといったものが、マスクメーカーから出てくるかもしれません。
ところで私の場合今のところ、マスクの感覚過敏はありません。むしろ髭剃りが雑で良い分助かってます。
髭を剃るのを忘れたので、マスクをつけてごまかすというのは、コロナ禍以前からよくやっていました。
もっとも良い点はそれくらいで、私が髭剃りを忘れても助かることより、感覚過敏でマスクがつけられないことの方が深刻なので、この生活様式は終わったほうが良いとは思います。
マスクをずっとつけてると、鼻毛も伸びっぱなしだし。
外すのが面倒なので、外出先で顔を洗ったりもしなくなったし。
他にもいろいろあるのですが、単に自分が不潔なだけの気がしてきたので、余計なことを言うのはやめて、
口を閉ざします。
マスクだけに。
完
挨拶を無駄と認識した発達障害
続きです。
※一応断っておくと、以下一介のASDが考えた一例に過ぎないので、ASDに関して信頼できるカウンセラーがいらしたらその方の言うことを聞いたほうが良いです。
ミカンの剥き方は置いておいて。
これが例えば、「挨拶をしない」とか、「親切にされてもお礼を言わない」とか、
そういう方向に合理的な理由を(無理やり)見出してしまうと、
周りも自分も不幸になっていくことになります。
理由をつけようと思えばいくらでもつけられて、
「自分も相手もそこにいることは認識しているのだから、挨拶など必要ない、無駄」
「親切とは自分の意思で行うことで、その行為自体が自身の喜びのためなのだから、他人に親切にした時点で完結している。そもそも感謝を強要するほうが間違いなのだ」
等々、言ってみれば屁理屈です。
そのくせ自分が挨拶したのに無視されると機嫌が悪くなるんですよね。ASDは。
こんな方向に突っ走っていくと、単なる嫌な奴にしかならないので、
平穏な社会生活を営んでいくつもりならば、修正していく必要が出てきます。
では、どうすれば良いのでしょうか。
前回書いたように「拘り」という説明は若干違っていて、本人の中では合理的な理由が出来上がっているわけです。
いくつか方法は考えられます。
1.深い理由はなく「そういうもの」として割り切らせる。
朝起きて夜寝る、(日本では)家では靴を脱ぐ、等、深い意味はなくともそういう文化なのだから、とりあえず挨拶くらいしておけば角が立たない。減るもんじゃないし。
2.挨拶も感謝もちゃんと伝えたほうが気持ち良いだろう、と、感情に訴えかける。
ASDは合理的である、と言われることが多いですが、実際のところ感情に訴えるのは有効です。基本的に寂しがり屋なので。
どちらも悪くはないのですが、私が一番納得するのは以下の説明です。
3.別な理屈をひねり出す。
その場にいるだけで、相手を認識できているとは限らない。視線、声など、コミュニケーションの方法を増やすことが、相手を認識できている可能性を上げることに繋がるのだ。
ふざけていると思われるかもしれませんが、私の場合、挨拶をすべき理由としては最も腑に落ちます。
「挨拶は必要ない」と人生のどこかで認識してしまったASDの人は、おそらくモデルが現在の文化に合っていない。
別なモデルに触れることで、あっさり転向する可能性があるのです。
もしあなたが定型発達者で、ASDの人に何かを伝えたいなら、理屈っぽい伝え方をすると良いかもしれません。
そしてASDの人は、「拘り」とされる自分の認識をきっちり言語化できるようになってください。
そして多くの人と会って、あらゆる「モデル」を取り込んでください。
多分それがASDが幸せになる、一番手っ取り早い方法です。
特にオチは無し。
では、さようなら。
ミカンの皮の剥き方が変わっている発達障害
たまに言われるんですが、私はミカンの皮の剥き方がおかしいみたいで、
なんかリンゴの皮みたいな剥き方をするんです。
これはASDによく見られる、特に意味のない「拘り」みたいなものと思われます。
ただ「拘り」と説明されることが多いんですが、当事者からするとちょっと違っていて、この場合、
「リンゴだってこういう剥き方をするんだから、ミカンだってこう剥いて構わない。むしろ片付けやすくて良い」
というような考え方をしており、こういう剥き方以外でミカンの皮を剥くという発想が、そもそも無いんですよね。
この剥き方で何か不都合があり、普通の(四等分して十字に剥くような)剥き方のほうが良い合理的な理由があったら、あっさり変わるかもしれません。
ASDはよく分かんない「拘り」を持つと言われます。
しかし他者への説明としては間違っていないとしても、当事者はこれを「拘り」とは認識していないので、
自分は意味のない拘りなど持っていない(故に、自分にはASDの傾向は少ない)という考えに至り、自分がASDであることの把握から遠ざかる可能性があるわけです。
別にミカンの皮の剥き方くらいなら良いんですが、これが社会生活に直結する行動だと、一気に面倒なことになるのでした。
続く。
ミカンだけに、
オチが見っかんない!
ASDは仕事を好きにならないと生命の危険がある
20年ぐらい前にやたらと聞いた「好きなことを仕事にしてはいけない」という言説は、正直日本を衰退させた根源と思ってます。
このせいでトヨタに車好きが入社しなくなり、ゲーム会社にゲーム好きが来なくなった。好きを仕事にしないのなら何を仕事にすれば良いのかッ!
それはさておき、今回の本題はこれではありません。
興味を持ったことしか「できない」ASDの場合、仕事を好きになれない、仕事に興味を持てない、ということは、即仕事ができないに直結するので、仕事嫌いは食い扶持がなくなります。
仕事の内容に興味が持てなくとも、新しいことができるようになるとか、同僚に感謝されるとか、そういうちょっとしたことで、働くことに喜びを感じられるようにしないと、非常に辛いです。
特に、「仕事が嫌い」であることにアイデンティティを持ってしまうと、悲惨なことになります。
仕事を好きになるという動機付けが無くなり、永遠に仕事ができません。
ASDはネット上にはびこる「仕事とはクソである論」に影響されると、真面目に生命の危険すらあるので、無視してください。
あれは定型発達者にのみ許された遊びです。
命を削ってやるようなことではありません。
もちろんブラック企業やらやりがい搾取やらといった問題は常に存在するのですが、それはそれで労働問題として糾弾すれば良いのです。
ASDは人に興味を持てなくても良いのですが(持った方が良いけど)、仕事には興味をもってください。
余計なことを考えるのは得意なんだから、
自らの人生を不幸にする方向へは、
知恵を働かせないようにしましょう。
完
カバン
今週のお題「カバンの中身」
発達障害者といえば、カバンの中身が酷いことになっていることで有名ですが、
せっかくなのでカバンの中を検めてみましょう。
イヤホンです。
壊れてます。
早く捨てろ。
ミンティアです。
中は空でした。
昔だったら中身が残ってるどころか、未開封のまま忘れていたので、これは成長と言えます。
これこそ発達障害者と言わんばかりのレシートです。
最早いつのかもよく分かりません。
カバンの中に限らずそこかしこにあります。
養生テープです。
何かを養生しようとしたのでしょう。
自分が養生したほうが良さそうです。
他にも謎の紐とか謎の紙とか色々出てきましたが、キリがないのでやめます。
まあカバンはちゃんと毎日検めたほうが良いのだと、
改めて理解しましたッ!
なんつってッ!
完
※自分用メモ
腕立て伏せ:42
スクワット:32
背筋:32