まるセカのにっき

適当に色々書いてました

挨拶を無駄と認識した発達障害

続きです。

 

※一応断っておくと、以下一介のASDが考えた一例に過ぎないので、ASDに関して信頼できるカウンセラーがいらしたらその方の言うことを聞いたほうが良いです。

 

ミカンの剥き方は置いておいて。

これが例えば、「挨拶をしない」とか、「親切にされてもお礼を言わない」とか、

そういう方向に合理的な理由を(無理やり)見出してしまうと、

周りも自分も不幸になっていくことになります。

 

理由をつけようと思えばいくらでもつけられて、

「自分も相手もそこにいることは認識しているのだから、挨拶など必要ない、無駄」

「親切とは自分の意思で行うことで、その行為自体が自身の喜びのためなのだから、他人に親切にした時点で完結している。そもそも感謝を強要するほうが間違いなのだ」

等々、言ってみれば屁理屈です。

 

そのくせ自分が挨拶したのに無視されると機嫌が悪くなるんですよね。ASDは。

 

こんな方向に突っ走っていくと、単なる嫌な奴にしかならないので、

平穏な社会生活を営んでいくつもりならば、修正していく必要が出てきます。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。

前回書いたように「拘り」という説明は若干違っていて、本人の中では合理的な理由が出来上がっているわけです。

 

いくつか方法は考えられます。

 

1.深い理由はなく「そういうもの」として割り切らせる。

朝起きて夜寝る、(日本では)家では靴を脱ぐ、等、深い意味はなくともそういう文化なのだから、とりあえず挨拶くらいしておけば角が立たない。減るもんじゃないし。

 

2.挨拶も感謝もちゃんと伝えたほうが気持ち良いだろう、と、感情に訴えかける。

ASDは合理的である、と言われることが多いですが、実際のところ感情に訴えるのは有効です。基本的に寂しがり屋なので。

 

 

どちらも悪くはないのですが、私が一番納得するのは以下の説明です。

 

3.別な理屈をひねり出す。

その場にいるだけで、相手を認識できているとは限らない。視線、声など、コミュニケーションの方法を増やすことが、相手を認識できている可能性を上げることに繋がるのだ。

 

ふざけていると思われるかもしれませんが、私の場合、挨拶をすべき理由としては最も腑に落ちます。

 

「挨拶は必要ない」と人生のどこかで認識してしまったASDの人は、おそらくモデルが現在の文化に合っていない。

別なモデルに触れることで、あっさり転向する可能性があるのです。

 

もしあなたが定型発達者で、ASDの人に何かを伝えたいなら、理屈っぽい伝え方をすると良いかもしれません。

 

そしてASDの人は、「拘り」とされる自分の認識をきっちり言語化できるようになってください。

そして多くの人と会って、あらゆる「モデル」を取り込んでください。

多分それがASDが幸せになる、一番手っ取り早い方法です。

 

特にオチは無し。

 

では、さようなら。